2020/07/02

 今日は半日読書をしていてそれ以外で新しく情報を得るということがなかったので、読書のメモをそのまま載せてみる。タイトルは

 

 『MIND CHANG テクノロジー脳を変質させる』 

                 著:スーザン・グリーンフィールド

 この本の目標は、ビデオゲームSNSのような興奮作用と双方向性を持つ多刺激な環境が、人の脳に及ぼす影響についてより良い知見を得ることにある。

 

 まず前提の話として、自己表現の方法は歴史的に見て三つに分かれるとされる。

1. 消費行動により自己を定義し、真の充足感を伴う事なくアイデンティティを手に入れる方法。

2. 個人が集団の一部となる方法。充足感はあってもより大きく非個人的な物語に組み込まれる。

3. 入ってくる情報を感じるだけで自己の感覚を捨てる方法。扇情的な時間を過ごし、もはや「自己」意識はない。

 

 現代では、超センセーショナル(扇情的)なデジタルテクノロジーの登場で、何かが変わる。

アンドリューキーンによると、SNSによりデジタルナルシズムという文化が生まれた。YouTube世代の関心は、世界について学ぶことよりも自己表現することに向かっている。

ユーザー作成型コンテンツが邪魔をして、確かな情報を持つ専門家の声が届かなくなっている。

 

 2011年の研究では、ネット空間では子供は「自分がいつもより強くて自信があるように感じる」と回答した。

 

 

 インターネットにより同じ情報が広範囲に急激に広まる。グローバルなつながりと、それ相応の文化の均質化が起きた時、皆が一様な反応や振る舞いをするようになるとどうなるか。異質の暮らしが数多くある世界と、標準化された定型の暮らし方が一つしかない世界の間には、大きな違いがある。

社会の多様性に対する比較は、主体が確立されたアイデンティティとライフスタイルを土台に持たない限り成り立たない。

 

 「思考」について

 歩行は一歩が次の一歩を引き起こす。無秩序ではなく一定の連なりとして起こる。

空想や思い出、論理的な議論、ビジネスプラン、希望、腹立ちなど、どのような思考でも、「一定の連なり」という基本特性を共通して持っている。これには時間がかかる。この「つながり」こそが思考の本質である。

その場限りの瞬間的な感情と違うところは、心の中で段階を経る必要があるところだ。思考のプロセスは過去と未来をつなぐ働きができる。連続する思考の中で、出来事と人と物とを関連付けることが出来るのは人間だけである。

 

 思考が複雑になる程、時間はかかる。

行き当たりばったりに情報にアクセス可能だが、あらゆるものが巻き戻し可能で刺激と応答の間に時間差がほとんどない環境、時間に余裕のない環境に脳を置いたなら、思考の連なりは途切れて、おかしくなるかもしれない。「映像と音の世界」は集中力を損なう。

 

 ヨハネスグーテンベルグ活版印刷を行ったのは1439年ごろの話だった。情報の拡散により個人が力を持ち教育が進んだ。電気は暗闇に対する、新しい心のあり方を生んだ。1960年代、テレビを見るということは、「人が集まる」ということでもあった。

 モバイル機器や寝室の役割拡大によって孤立化がすすんだことでネット空間に集まる方向と、家庭の中心から離れる流れが進んだ。応接間は、触れ合いや情報伝達の中心になる開かれた場所であって、生活の決まり事や計画がそこで作られていた。

 

現代の電子媒体のスクリーンは、その圧倒的な情報量によって、一個人の感覚を独占し、考えるスペースを与えない。

木々やスケッチブックはただの道具である。なんの刺激もないような状態こそ絵を描いたりゲームを考えついたり外に遊びに出て行ったりするきっかけに過ぎない。

 

今までは一人一人にその人独自のあり方で、過去、現在、未来のつながりを与えていた。過去の記憶と未来の希望を毎日の偶然の出来事と調和させながら続いて行く、主観的で内的な記録でもある。

 

 

数学の研究にかなりの時間を割くと、大脳皮質の頭頂葉灰白質密度が増える。視空間表象などに関係することが知られている。脳の構造変化にとって必要なのは既に学んだ何かの反復練習を続けることよりも、新しいタスクを「学習する」ことである。

 

社会的活動への参加や知的活動認知機能は衰えにくくなる。また、元気よく歩くだけでニューロンの産出が刺激される。

 

「何かを信じる気持ち」がニューロンネットワークレベルで起こると実際に変化が起こる。

 

ドーパミンは脳のあらゆる領域でニューロンの反応性を変化させるという特性を持つ。

 

ギャンブルにおいて肥満の人は危険を犯す可能性が高い。

 

過食、ギャンブル、統合失調症の特徴は、瞬間に感じる感覚に重きがおかれ、結果が忘れ去られる。外界からの刺激に重きがおかれ、前頭前野が不活発になる。

 

情報処理とは、入ってくる情報を単に適切に処理するということであるが、「理解する」とは、刺激をなんらかの概念の枠組みに組み込むことだ。

 

心理学者のジョンボルビー曰く赤ちゃんの愛着行動のスタイルには3種類あり、「安全」「不安」「回避」がある。

安全な赤ん坊は、母親が部屋を出るとすぐ泣き出すが、戻ればすぐ遊び出す。

不安な赤ん坊は、戻ってきた母親を拒絶して大声で泣き出す。

回避の赤ん坊は、まるで何事もなかったかのように振る舞うが、心拍数やコルチゾールのレベルは上昇する。

 

 

要求が無視される赤ん坊は諦めて、『存在する』事を止めるようになる。子供の情緒的な幸福とは、その子の重要な身体的欲求に対して注意が払われることにあると言える。

子供の成長ホルモンは、受け取る注目の量に比例して放出されると考えられている。

 

 

 「ハイパーテキストは読者の持つ概念の枠組みに収まらない。必ずしも内容の理解や習得に役に立つとは限らず、気を散らすことになりかねない。」 点と点を結びつけるプロセスの重要性について

注意持続レベルの高い学生は学習を一直線に進め、、ハイパーテキストを見ず、成績が良かった。微妙な表現や不確かな事をそれなりに評価して取り組むことが重要になる。

その人自身のペースで読むという行為は「メタ認知」である。自分自身の認識能力を見つめ、それに気づく。ということである。

 

スクリーンと紙の比較。試験的に条件を固定させた時は優位性はなかったが、自由に学習時間を管理させた場合は、紙での学習の方が有効だった。また、スクリーンでの学習だと、自己評価に対する過信が強く見られた。努力を要する学習は紙媒体の方が良い。

 

大学の研究によると、特定のお題を調べるように図書館グループとインターネットグループに分けた。紙のグループの方が情報に強い好奇心と探究心を示した。

書物には永続性を感じさせる面があり、安心感を与え、自信を持って取り組ませると考えられる。

 

5〜6歳児の児童に電子書籍を読ませ、読解力への影響を調べた。

紙と電子書籍か、大人が周りにいるかいないか、で4つのグループに分けた。

結果、大人が周りにいる電子書籍のグループの方が、他のグループより大きく向上することがわかった。

 

セサミストリート効果」= 貧困層と富裕層の格差を埋めるはずの媒体が、逆に格差を拡大させる、という現象のこと。

 

ソクラテスによる「書く行為と記憶力」に関する知見と不安。書くと記憶することが蔑ろにされる。これと同じように、デバイスの発達によって失われるものもあるのではないか。

 

 

以上です。要約ではなくメモだから、大してタメになりはしないけど学習記録として残します。文中で「言葉の連続が思考であり連続して初めて意味(価値)がある」と言ってるのに、自分はこの文章をただの箇条書きにしているのが滑稽だけど、時間が取れないので許してください。

 

 

Twitter

Twitterでフォローしている人に、いわゆるフェミニスト?っぽい人がおり、その人のいいねから、男に関するツイートがよく目につくので観察してみる。スクショで載せようかとも思ったけど、文章だけ載せてフラットに見てみる。

もしかするとだけど、子どもを欲しがる男性って「人間」が欲しいだけなのか? 泣いたりワガママ言うような時期の人間ではなく、「パパー」と無条件で慕ってくれて、1日5分程度構うだけでいいようなのを想定している…?

以下、これに対するリプライ

私の職場の男性は殆ど既婚子持ちで「お前も早くいい人捕まえて子供産みたいよな!」みたいな言葉をよくかけられるので、子供欲しくないって事をを公言してるんだけど、皆口を揃えて「子供かわいいって!」「生まれたらわかるって!」「なんとかなるから!」 なんとかしてるのは奥さん… 

一理あるような気がします…少なくともうちの元旦那はそうだった!子供を欲しがったのはそっちなのに、いざ産まれたら「こんなに大変だと思わなかった」とか言い出して、帰ってきた時だけわ〜っと少しだけ遊んで終わり…それで子育てしてるつもり??と思ってました

 このように32個中30個ほど本ツイートに対する賛同する意見が見られた。

 

概要は以下のとおり、

原告 夫または父親に恵まれない妻、あるいは、子育てに深く関与していない”ようにも聞こえる”男性の発言をよく聞く女性

内容 子供を欲しがる男性は、泣いたりわがままを言う時期を持つ人間を求めておらず、無条件に自分を慕い、一日五分程度構えば良い人間を想定している可能性がある。

 

 

「子供を欲しがる男性って...」<=これは「子供を欲しがる男性”全員”が...となる可能性を持つ」ということ。そのまま文面を受け取り言い換えれば、内容は以下の通り

子供を欲しいという男性全員に「この人は子育てに対する意識がなく、軽薄な人間」であるかもと、疑いの目を持つべきだ。

 

主語を変えれば内容に関しては大体想像がつき同意。子育てに対して軽薄な男性はおり、彼の存在は不快です。しかし、主語がまずいと思います。

理由は、参考にしているデータが少なすぎるにも関わらず、件の男性全員の人間性を疑っているからです。一般に、ある特定の存在(例えば男性、女性、〇〇人)に対して、彼らの傾向から「〜は、〜な人たちだ」という表現の仕方は、表現として許容され効果的な場合はあるにしても、多くはただの偏見、感情的な決めつけ、事実誤認の表現です。そしてその決めつけから漏れた人たちを傷つけ、行動を余計に制限します。この件で言えば子育てに対しての意識がきちんとある「子供欲しい」と言う男性です。

 このように、「一理」を含みつつの不適な表現による過剰な決めつけは、建設的な議論を生みません。どこまでが正当性を持つ意見でどこからが間違っているかの整理もなく、互いが相手の認識能力が低いのだと言い合って、人間性をdisり合い、同じ意見の人たちで肯定し合うのです。その悪循環はこれまでに他の話題で沢山見てきたかと思います。

 

フォロワーが多くないにしても、鍵垢でない以上、全ての人たちから見られる訳で、引き起こした反応の数だけ影響は及び、その分の責任もついてきてしまうのがTwitterです。

自分の意見を自分が確かだと思っても、偏見を含み誰かに害になる表現になってないか、気をつけて発信すべきでしょう。

本人が感情的になり、偏見を持ちたい広めたいと思っているのであれば、それは論外ですが...

 

Twitter終わり

 

おわりに

今日はこんな感じですね。もっと掘り下げて書けるのですが時間がないですね。おやすみなさい〜